シモハナ物流へは中途入社です。
それまではトラックのディーラーで営業をしながら、軟式野球をやっていて。
実業団チームで選手から監督まで務め、全国大会に出たのを区切りに引退しました。
シモハナ物流は当時の営業先だったんです。
引退と同時に転職することは決めていて、でも行き先はまだだった。
そんな時にシモハナにいた先輩から「ウチを受けてみろ」と言われ、受けてみた。
気持ちはまだ固まってなかったんですけどね。
ところが、社長にお会いしたら「来月から来い」という話の流れになって思わず「はい」と答えてしまった。
それが転機。
31歳の時でした。
当時のシモハナ物流はまだ中国地方のイチ運送会社で、今のような会社になるとは想像もしてませんでしたけどね。
入社して最初の配属先は岡山でした。
今思えば、舐めてましたね。
トラックを売っていたので配送のことはある程度分かる、と。
だけど、全然ダメだった。
当時の岡山は今の事業の原型である“食品物流×3PL”をすでにやっていて、24時間・365日稼働している。
人間の生活に一番身近で欠かせない“食品”を管理し、届けているわけですからね。
お客様ごとに異なる作業手順、膨大な商品アイテム、人の管理、収支の管理…と、仕事を覚えるのに3年くらいはかかった。
ただ物流の仕事というのは達成感を得られやすいところがあって。
考えたことをすぐに試せて、結果もすぐに表れる。
作業がラクになったとか、クレームが減ったとか実感できて、最終的にそれが利益にもつながりますから。
そうした面白さにもハマって岡山に8年弱。
最後は統括所長という立場で、厚木営業所の立ち上げという大仕事に向けた準備を進めていました。
厚木営業所の立ち上げは、シモハナ物流にとって“首都圏進出”という意味もありました。
広島で創業し、その後70年近く中四国で事業を営んできたシモハナ物流は、
2006年に高槻営業所を開設して、関西に打って出たところから急成長を始めました。
先にあるのは当然、最大市場である首都圏制覇です。
厚木営業所はその先陣であり、1万2000坪(それまで最大だった高槻営業所の2.4倍!)という広大な敷地を擁するセンターでした。
巨大物流センターの立ち上げは、一気にはできません。
まず2月、最初は居酒屋チェーンのお客様からスタートして問題なく立ち上がりました。
そして4月は食品商社。配送先は30企業・1000店舗という、かつて経験のない規模の立ち上げでした。
その準備の最中、3月11日には東日本震災が起こります。
4月の予定を5月に延ばしたものの、何としてもやりきらなければいけない。
それが失敗でした。
震災のせいではなく、一気にやるには規模が大きすぎたのです。
荷がスペースに収まり切れない。ロケーションが設定できてない…。
挙句の果てには宝探し状態。
現場のオペレーションは大混乱に陥りました。
もう手が付けられない。このままではお客様の物流が止まる!
すべての業務を、お客様の元のセンターに戻すことを決断せざるを得ませんでした。
罵声を浴びながら、30社分の業務を一社ずつ、半年かけて戻した。
結局、その仕事はリベンジできず、お客様と配送先30社の方々にはお詫びしようのない迷惑をかけしました。
そして会社にも。
予定していた売上を失ったうえに、巨額の赤字を計上。
その後、仕切り直しの体制が整うまでには約4年の歳月が必要でした。
私は責任者を外れて敗戦処理に当たりました。
お預かりした業務を半年がかりで戻した後は、補償交渉などと並行して新規顧客営業も行ないました。
お金が出ていくだけでは会社が傾いてしまいますから。
3年間は針のむしろ。
本音を言えば、逃げ出したかったですね。でも、できなかった。
「投げ出すのは簡単だ。難しいのは、苦しい時に改善を続けて局面を打開することだ」というのが、
高校・大学・社会人と野球をしてきた中で培われた、私の信念でしたから。
立ち上げの失敗から4年が経って、私はブロック長として復帰しました。
敗戦処理も一つの区切りを迎え、自信をもって新規開拓できるだけの体制がようやく整った。
2014年に、関東で2拠点目となる浦和営業所が、順調に立ち上がったことも大きかったですね。
厚木の失敗は風評にもなっていましたから、その払拭にも効果があった。
シモハナ物流の首都圏での展開が前に進み出したのはここからです。
私自身が、この仕事の面白さをほんとの意味で知ったのも、ここからかもしれない。
配送チームや作業チーム・営業チームなどとあれこれ議論しながらプレゼン資料をつくったり、
その提案を評価していただいて、それまで相手にもしてもらえなかったような大手のお客様からポツポツ契約が取れ出したり…。
そうなってくると面白い。
ただその後、コロナ禍でまた後退を余儀なくされました。
平坦な道はなかなか歩かせてもらえないものです。
2020年に始まったコロナ禍には再起の出鼻をくじかれた。
景気の波を受けにくい食品物流ですが、関東は特に外食がメインでしたから外出自粛の影響をもろに受けました。
正直、痛かったですね。
でも、転んでもただでは起きませんよ。
苦境をどう活かすかが大事。
それはこれまでの体験で一番学んだことですからね。
コロナ禍の最中、私たちは給食の配送を始めました。
特に、医療・福祉施設といったヘルスケア領域をターゲットとして。
この領域は今後、間違いなく伸びていきますからね。
ただし、高齢者や患者さんの口に入るものですからミスはそれこそ命取りです。
これまで以上の品質が求められる。
でも、それをクリアすることでさらに競争力が高まるはずです。
私個人で言えば、厚木の体験はある意味、財産だと思っています。
会社には大きな“借り”ですけどね。
だから、あの体験から学んだことを次世代に伝えていく責任が、私にはある。
シモハナ物流で、私は“ビジネスの本質”を教わりました。
売上を最大化し、原価を最小化するためにはどうすればいいか?
どんな苦境にあってもそれは追い求めてきた。
その先に利益があり、利益を出すことでお客様や社会への貢献も可能となり、巡り巡って自分にも還ってくるものだと思い知ったから。
そんな“本質”を若い人たちにも知ってもらうことでより強い体制を、より強い人材を育てていく…それは私の使命でしょうね。